ゴルフ界の総合経営誌『月刊ゴルフマネジメント』で、人材育成に関するコラムを連載させていただいております。
第33回はのテーマは『「今のままでいい」を打破する。現状維持バイアスの克服法』です。
月刊ゴルフマネジメントに掲載された記事一覧は下記のリンクからご覧いただけます。
組織改革において最も足かせとなるのは変化に対する心理的な抵抗感です。明らかに良くなることが分かっていたとしても、「今のままで良い」「わざわざ変えなくていい」「新しいことをするは面倒だ」という保守的な意見に押され、「合理的な変化」よりも「不合理な現状維持」を好む組織は、改革を推進するリーダーの頭をいつも悩ませます。
人は常に変化を恐れる「現状維持バイアス」
現状維持バイアス(status quo bias)とは、未知のものや変化を受け入れず、現状維持を望む心理作用で、1988年にアメリカの経済学者でハーバード大学ケネディスクール教授リチャード・ゼックハウザーとウィリアム・サミュエルソンによって提唱された理論です。
私達人間は、経験していない事、よく分からない事、不確実なこと、に不安を感じる生き物です。
便利と知りながらも新しいアプリを使わないのも、必要と感じながらも英語やプログラミングなどの新しいスキルを身につけるのが面倒に感じるのも、高いと感じながらもサブスクや保険のプランや見直さないのも、この現状維持バイアスが働いているからと言われています。
しかし現状を固持したり、あるいは結論や行動を先延ばしすることで、状況を徐々に悪化させて、結局さらに大きな損失になってしまうというケースはよく起こります。
プロスペクト理論
現状維持バイアスの要因となるメカニズムには損失回避傾向(プロスペクト理論=不確実な状況下で意思決定を行う際に、事実と異なる認識の歪みが作用するという意思決定モデル)が大きく影響しており、私達は成功によって得られる喜びよりも、失敗によって被る損失を大きく見積もる傾向があるため、変化によって享受されるメリットを過小評価し(あるいは損失を過大評価し)、やらない方が良いという決断を下してしまうという心理作用です。
社会実験では1万円を得られる喜びと、1万円を失う悲しみを心理的インパクトで比較すると2.25倍くらいの差があると言われていますから、極端な話をすれば、売上が倍になる、利益が倍になる、給料が倍になる、くらいのインパクトがないと、人は好んで変化を受け入れたり、普段と違う行動に踏み切らない、ということを意味しています。
しかし、一般的な業務改革といえば売上や利益で数%の改善ができれば上出来という程度のインパクトのものがほとんどですし、組織風土改革ともなるとその定量的な評価はより曖昧なものになりますから、けっきょく現状維持バイアスによって何も変わらないという状態になります。
単純接触効果
またもう一つ、現状維持バイアスに影響を与える要因として「単純接触効果」というものがあります。これは「人間は慣れ親しんだものを好む傾向がある」という心理作用で、何度もCMで目にした事がある商品を購入したり、その人と何度も顔を合わせているうちに親しくなったり、ついつい馴染みの店に行ってしまうというのもその一種です。
私達は接触回数に応じてその物事に対して好感度を上げていく性質があるので、そうして使い慣れて好意をもっているものを変えたくないという心理になります。
現状維持バイアスを解消する
このように現状維持バイアスというのは、私達の心理的作用であるため、私も含めて誰にでも起こることであり、私達リーダーやコーチは、この傾向に気づいたら適切に対処することが求められます。
1.現状維持バイアスに気づく
現状維持バイアスを解消する上で最も大切なことは、現状維持バイアスが働いていることに気づくことです。
組織の戦略や方針に従わない、会議で決まったことや指示されたことをやらない、明らかに得するのにやらない、こういう態度に対して私達はついつい「反抗的だ」「やる気がない」「能力がない」というレッテルを貼ってしまいます。こうした負の感情は言葉や態度として相手に伝わり、対立を生み出す原因になってしまいますし、チームワークにも悪影響を与えます。
このような現象が起きたときには、真っ先に現状維持バイアスを疑ってみましょう。
2.客観的に明示する
次に比較検討資料などを作成して、「メリットとデメリット」「賛成理由と反対理由」など書き出して、論理的に比較検討します。コンサルティングファームなどでは「プロコン」と略称される手法ですが、このように思考を整理してみると現状維持のメリットの小ささ、変更した場合のメリットの大きさに自ら気づくことで、行動をスムーズにすることができます。
3. トライアル期間を設ける
変化に抵抗はつきものですが、抵抗の要因の一つは上述した単純接触効果の問題ですから、新しいものへの接触頻度を増やして行くことも有効です。ですからいきなり変えるのではなく、「まずはこの期間だけ試してみよう」と提案してみることも有効です。
単純接触効果は10回がピークといわれており、10回を超えたあとの印象にほとんど差がでないといわれていますから、例えば新たなシステムなどを導入する際には「まずは10回使ってみてから考えよう」と提案してみるのが効果的ということになります。
4. 第三者に意見を求める
それでも現状維持から抜け出せない場合は、第三者に客観的な意見を求めるのも有効です。現状維持のメカニズムは”慣れ”によるものですから、その出来事に慣れていない(バイアスがない)人に客観的な意見を述べてもらうことで冷静に判断出来るケースもあります。
まとめ
よほど強い動機がない限りは「今のままで良いかもしれない」という躊躇する気持ちや、変化や行動の失敗に対する漠然とした不安を感じるという心理作用は、私達の心の中で無意識で起こっています。
またこのコラムは人材についてがテーマなので触れていませんが、この現状維持バイアスというのはマーケティングでは「スイッチング・コスト(切り替え費用)」という言葉で使われていて、上述したプロスペクト理論や単純接触効果は、提供側からすると顧客が他の商品やサービスに切り替えることへの心理的障壁となるため、現在顧客を引き止める要因としても使われていますから、一概に悪いことというわけではありません。
しかし刻々と状況が変化する現代社会の中においては、変化に強い組織や人材の重要性は年々増していますから、頭ごなしに変わらないことを批判するのではなく、職場のリーダーやコーチは現状維持バイアスについて理解し、なぜ変えられないのか?どうすれば変わるのか?ということに対する知恵を持って適切に対処できることが重要です。
会社の中では「制度やルールの変更」「業務フローやオペレーションシステムの変更」「配置転換や転勤など所属の変更」では特に現状維持バイアスが強く働き、いつまでも変わらない、非合理と思いながら昔のまま、という状態になってしまいますから、みなさんもご自身の職場で現状維持になっていることがないかチェックしてみてください。